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クロツバメの浮き雲ライフ

保護猫のこと、時々趣味を綴ります。

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カレーライスと嫁

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カレーライスのことを書いた読み物です。

 

今回は猫は登場しませんのであしからず。

 

 

もくじ

 

 

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カレーライスと嫁

 

まえがき

 カレーライスを定義するうえで前提としてお伝えしなくてはならないことがある。それは『カレーライスは食べ物』だということだ。

 

 『カレーは飲み物』という格言めいた言い回しが跳梁跋扈しているきらいはあるもののそれはある種の【たとえ】であって、いくらでもペロッと食べられるというカレーライスへのリスペクトと愛情の深さがそう言わしてめいるに過ぎない。

 

 ルゥとご飯を一緒にすくって食べることが唯一にして最大の醍醐味であり、口内調理の代表的な事例といえる。カレーライスとは福神漬けやらっきょうに代表されるトッピングの好みから、はじめにご飯とルゥを混ぜて食べる派やカツカレー崇拝にいたるまで千差万別の嗜好が注ぎ込まれる国民食である。

 

 カレーライスを夫婦にたとえた小話も多くあり、ここまで来ると哲学的な食べ物でさえある。

 

 僕と嫁がどこにでもあるカレーライスチェーンで食事をしているというだけの退屈な話から何かしら教訓めいたものをつまびらかにすることができたとしたら、この文章は成功しているということになる。

 

 

 

 

カレーライスと嫁

 

  エアーコンプレッサーのカタカタというノイズが有線放送から流れる無味無臭のポップソングの間隙をぬって耳に届く。向かいに座る嫁ともそもそと他愛のない話しをしながら注文したカレーライスが来るのをただ待っている。

 

 

 水が入ったグラスは外の暑さに汗をかいてでもいるかのように水滴をしたたらせ、ときおり氷が「カラリ」と乾いた音をたてる。

 

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 お互いが昨夜のちょっとした言い争いを引きずっていて、気まずさを抱えていたせいかカレーライスが来るのがいやに遅く感じられる。

 

 

 嫁は『野菜カレー+スクランブルエッグ』の普通盛りを頼む。「ふん、スクランブルエッグなんて邪道きわまりない。」と思っていても、もちろん口には出さない。それは結局のところ嫁の自由だし、嫁の胃袋に野菜とスクランブルエッグとカレーとご飯が仲良く収まることになったとして僕にはなんの関係もない。

 

 

 あるいはそれと同様に僕の『チキンカツ』をのせた大盛りのカレーに対して、嫁は心の中で呪詛の言葉を吐き連ねていたのかもしれないのだ。

 

 

 永遠とも思える時の彼方から運ばれてきたそれぞれのカレーライスは、まるで休戦の狼煙を上げてでもいるかのように白い湯気をもうもうとたてており、香ばしいスパイスの香りを辺り一帯にまき散らしては我々の食欲中枢を刺激する。

 

 

 なかばホッとしたようにそれぞれのカレーライスにおもむろにとりかかる。嫁が食べる前にルゥとライスをごちゃ混ぜにするようなタイプでなかったことにつねづね安堵の念を覚えている。カレーライスなんて好きに食べればいいのだと思いつつも、【ごちゃ混ぜ】タイプの人間とは【そりが合ったためしがない】からだ。

 

 

 あるいは考え方が偏屈に過ぎるのだろう。僕は時としてその『とても意味があるとは思えない持論』に固執してしまうことがある。そしてその【偏屈さ】こそが微妙な違和感となって降り積もり、昨日の口論を引き起こしたのかもしれない。

 

 

 しかし多くの偏屈な人間がそうであるように、自分の考え方が偏屈であることに思い当たるには他人の協力が不可欠である。そして自分の考え方が偏屈であることに思い当たったとしても、おいそれと思考を矯正することはなかなかできないものだ。

 

 

 衝突があるたびに長い時間をかけて話し合い、妥協点をみつけて歩み寄りなんとかここまでやってきた僕たちだが、そんな作業にもどかしさが募るとどうしても言い争いになるのだ。夫婦なんてそんなものだと言われたら返す言葉もないが。

 

 

 カレーライスそのものにはさしてこだわりがない僕にも、『食べ方』にはこだわりがある。【いかなる理由があってもルゥを切らしてはいけない】という決まりだ。それは先にルゥを食べきってしまってご飯だけが残ることに対する耐えがたい恐怖からくるものだが、ルゥを節約してご飯を多めに食べるという呪いでもある。

 

 

 結果もくろみは外れ、最後に余ったルゥを切ない気持ちですすることになる。そして最後にスプーン1杯の福神漬けを食べ冷たい水を飲み干す。福神漬けのあとの水は甘く感じるからだ。

 

 

 ここまでが僕の欠くべからざるルーティンとなっていて、この工程が終わった後にはなにも飲みたくないし、食べたくない。僕にとってのカレーライスはもう終わっているからだ。

 

 

 しかし嫁はというとカレーライスどころか食に対する哲学が希薄な傾向があり、僕のカレーに対する哲学を「変わってる」と一笑に付すのだ。そればかりか僕とは逆にルゥを贅沢に使いご飯を食べ進めていく。見ていて気持ちのいいものではなく、「ご飯が残ったらどうやって食べるつもりなんだろう」と想像しはじめるとじんわりと脇の下に汗が滲んでくるほどである。

 

 

 畏怖していたとおり、たいして味のしないスクランブルエッグを小脇に抱えたご飯が「もういらない」の一声でこちらに押しつけられることになる。僕がルーティンをきちんとこなして【至福に浸っているところに】だ。

 

 

 毎度毎度、仕方なく福神漬けを駆使してそのご飯をやり過ごすことになる。ご飯とエンゲージメントできずに無為に胃袋に送り込まれた最後の【余りルゥ】がため息をついている。「食べきれる量のご飯を頼んでくれよ」と懇願し、僕がもっているカレーライスへの哲学も何度も説き伏せた。それにもかかわらずこのやりとりは我々夫婦の間で繰り広げられてきたのである。

 

 

 そしてカレーライスがもたらす幸福感という恩寵は強引に奪い去られ、半減させられ「もう一緒にカレー屋になんか行くものか」と何度目になるだろうか、意を決するのだった。

 

 

 

突っ込みどころを探してみる

 

ではこの話のどこに教訓になり得る要素があるだろうか。思いつく限り羅列してみると‥

 

□:そもそもカレーライスを夫婦にたとえたり、哲学すべきではない

□:口論の翌日に夫婦でカレーライスチェーンになど行くべきではない

□:(無味無臭のポップソング~)ポップソングに味や香りを求めるべきではない

□:些細な好みの差に逐一不快感を抱くべきではない

□:カレーライスの食べ方で人を判断すべきではない

□:残り物を人に押しつけるべきではない(残せばいい)

□:ルゥやらご飯やらを擬人化して感情をもたせるべきではない

□:カレーライスに過度な期待を抱くべきではない

□:注文の段階で食べきれる量かを確認すべきだ

□:そんなにいやなら1人で行けばいいじゃないか

 

 

こんなところであろうか。

 

 

 

あとがき

 

 書くことを通して思考するための文章です。読んでみて時間を無駄にしたとお感じになった方に対しては平謝りするばかりです。

 

 

お口直しにどうぞ

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